2012年08月04日

DVD進捗状況

こんばんは 毎日暑いですね晴れ

オリンピックもアツいですが、寝不足には気をつけてください眠い(睡眠)

では、DVDの進捗状況ですが、天然住宅DVD「森とくらす―天然住宅というの取り組み―」ですが

順調に進んでおります。今現在は編集しメンバー間で確認し、また編集し直すという作業を続けています映画

字幕部分も3分の1ほど入ったかな・・・ あとは音楽を足して・・・ とまだまだやることはありますが

一歩一歩進んでおりますーぴかぴか(新しい)


では 短いですが状況報告でした〜手(パー)

ケン
posted by ゆらゆら at 20:35| Comment(0) | 進行

2011年12月26日

ラオスの風上映会を終えて感じたこと、考えたこと、気付いたこと

どうも

撮影スタッフのつもりが、いつのまにか今回の監督になっていたカズです。
本当にチャールストンさんや来てくれた皆さんに大感謝なのですが、意見を貰って始めて気付いたことがあったので書いてみます。

僕は人に批評されるのがすごく嫌なんですよね。
誰も皆そうかもしれないけど、自分の作った物出した物を褒められたいけど、けなされたりとか意見されるのってものすごく腹が立ったりイラッとしたり、言った相手を嫌いになったり、攻撃してしまったり。
自分の好きな作家やアーティストが批評されているのを見ただけで気分が悪くなり落ち込んでしまう。

これは本当に僕自身の弱い所なんですが、そういう嫌な気持ちになってしまうと、制御出来ずに溜め込んで大きくしてしまったり、外にネガティブな形で出してしまうんですよね。
それが嫌なら人前に出なきゃいいし、話さなきゃいいんですけど、目立ちたがりやでしかも喋りたがり屋だから本当にどうしようもないんですよね;
「人に良く思われたい」って気持ちが根底にあって、それは「君それでいいよ!」って言われたい依存心、何か指摘を受けて怒るのも「なんでOKっていってくれないんだ!(本当はOKと言って欲しい)」という依存心。

普段は平気で人のしないことをして、変人と思われても平気な風でいるし、あんまり人に言われるのを気にしないんだけど、それだって「人にこう見られたい、ひょうひょうとしているように思われたい」という願望あってのことなのかもしれないですよね。

だけども、自分の作った物とかをなんか言われる時は、いつものようにはいかないんですよね。
あと「何かやり始めよう」という時に、そのことにネガティブなことを言われたとき。

そんな時に、哀れ未熟者は怒りだし、そして後から「みっともない」と落ち込むわけです。
たま〜に三日三晩怒り続けていることもありますけど;

だからこそ、何か作った物を出す時には、すごく防衛戦を張ってしまうんです。
「ああ言われたらこう言い返してやろう」みたいなのだったり、同時に「何を言われても怒らないでいよう」とかたくなに思っていたり。。。
そういう臨戦態勢になること自体が嫌で。
まあ弱い人間なんです。

その弱さが表に出るのが本当に嫌で。

まあそんなことを言っていても、今回は編集をすることが出来るのは僕しかいなかったので、あれこれ考えず夢中でやっていたんです。

で、上映会が始まってからやっと「あっ、反応はどうなんだろう?」って不安になったりして。

でも終わった後のトークセッションや交流会も、ほとんどの人が出てくれて。
そこで僕のいるテーブルじゃなくても活発に「もっとここはこうしたらいいんじゃないか?」とか「これがよかった」とか「これがあったらさらにいい」とかいう話がされていて、それが妙に嬉しかったり。
また、見に来てくれた幼なじみに「これは本当に掛井の映画だなって思った」と言われ、そうしたらなんだか自分の子どもが自分に似ていると言われて嬉しいような、むずがゆいようなそんな気持ちになって。
それでまた色々な意見を取り入れることで「絶対この映画よくなるな」と確信したので、何を言われても有り難く思えて(すごく真剣に考えた意見ばかりだったからとも思いますが)。
本当に新鮮な体験でした。

嬉しくなってそのことを「1/4の奇跡」の入江監督に伝えたら「おめでとう。表現は自分をあきらめないことだから、まさに生き方そのものだと思っています」との言葉を頂きました。

『表現は自分をあきらめないことだから』

ということは・・・・どういうことなんだ!?

読んだ瞬間に「あっそうか!」と分かった気がしたけど、こうやって読み返してみて見るとなかなか説明できないもんですね。

つまり本質的に表現とは自分がどう見られるかどうか?ということじゃなくって、自分も分からない自分を「表現を鏡にして」掘り起こしていく作業なんじゃないかなと、その掘るのを諦めないということなんじゃないかな?と。

だとするならば、やはり作ること、磨くことに集中することがまず重要で、しっかりと集中して作った物ならば、それはそれでもう命がある物だから、自分の延長線として捉えないでいられるのかもしれない。

例えばこの前の講演会のDVDジャケットは、慌てて作って、あれこれ言われて傷つくのを相当に恐れていた。
片手間に作った物は、まだ自分から離れていないからこそ、自分が批判されたような気がしてしまう。
そしてその誰かの言葉にあわせようと思ってしまっている所がある。
誰かの言葉を無視出来ないから批判されたと感じるのだろうと思う。

向き合う場所を間違えているというべきなのだろうか?

往々にして、人の感情の不幸はそういうところに起こるのではないだろうか?
インスタントなやり取り、本当に没入しないで行われる表現。
そしてそれを良しとしてしまう自分自身。
自分の繰り返して来たことは、そういうことなのかなと思う。
音楽にしても然り、手軽に自分の深い所にある物を引き出そうとしていたと感じる。
でもそれはそれでいいのかな?

それは見る人を意識しないということとは全く別物で、まず対象に没入する。
その上で編集するときに自分の目線で対象を、そのものの本質を映し出せるようにフィルムを磨いていく。
その磨く過程でこそ、自分がいやおうなしにそのものの表現に参入してしまうのだろう。

もちろんそれは何を撮るかという時点でもそうだし、撮っている時点で撮る人と取られる対象との関係がフィルムに現れてしまう。

カウンセリング、精神分析の考え方に、「関与しながらの観察」という言葉がある。
どんなに相手の心を映し出す真っ白なスクリーンになろうとしても、その自分の存在自体が相手に影響を与えてしまう。
ならばそのことを意識しながら相手を観察していくことが必要であるという考えで、当然これは科学とカウンセリングを隔てる点でもあるのだけども。
ダイ君に勧められて読んだドキュメンタリー作家の方法論として、カウンセリングのこととして知ってか知らずか「関与しながらの観察」という言葉が使われていた。『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(想田和弘/講談社現代新書 2011)

ドキュメンタリーという表現方法を突き詰めていくと、対象を追求すること、自分を消すことに集中して、結果それでも匂い経つ自分をまた、作家自身が発見するということなのかな?と思う。

そこまでくれば作品自体が自分を見つめるための対象にもなりえて、そこにさらに与えられる作品を見た人の言葉は、今の時点では作品をさらに良くするための言葉以上の意味は持たず、もう僕が感情的に動揺したり、苦しんだりするものではないのだろうかとも思う。

最終的に商品として出来上がった時点で出てくる批判や評判に対しては、どんな風に感じることが出来るのか、そのことが楽しみでもあり、できれば自分のバカ息子を愛でるように出来上がった作品を愛でれたらと思いつつ、磨いている所です。

七月に出すって言っていてこんな時期になって申し訳なかったですが、でもそのとき無理に出していたらやっぱり片手間の、批評に怯えなきゃいけないような、そんなものになってしまっていたんじゃないかな?って思います。
ラストスパートのさらにラストスパート!
一月中には皆さんの元に届けられますように。

かずっち
posted by ゆらゆら at 19:49| Comment(0) | 進行